日曜日の説教年間第13主日


年間第13主日
朗読:
エレミヤ預言 20・10-13
使徒パウロのローマの教会への手紙512-15
マタイ1026-23


すべてに超えてイエスを愛し、そのことを優先にする人は苦しみを受ける可能性はあるのですが、神様に報われます。

先週の日曜日には売り物にならない雀に目をとめてくださる神様はともにいてくださり、わたしたちを見守ってくださるから、恐れることはないと言われました。すべてに超えてその神様を愛し、その神様のことを優先にする人は、恵みと祝福で満たされると今日の朗読は教えています。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」これはマタイによる福音書10章の今日の箇所です。この10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教です。今日の箇所はその結びの部分です。その箇所が福音書に書かれた時代の事情が分かると、今の私たちはそのメッセージを深く味わうことができると思います。

マタイの共同体の事情を見てみましょう。マタイの共同体の一部はイエスを救い主として認めたユダヤ人でした。ユダヤ教徒が多い当時の社会ではイエスへの信仰は好意に認められませんでした。そのために、どういうふうに生きるべきか、どういう姿勢を取るべきかというのが社会の侮辱や迫害の対象者となった古代キリスト教徒たちの大きな課題となりました。マタイ福音記者は迫害を受け、共同体から追い出された古代信者のために、イエスが弟子たちを派遣する前に語った言葉を伝え、共同体を励ました。

今日の福音は三つのことを伝えています。一つは、イエスに従うことは、血縁を超え、イエスのことを優先にすることです。二つ目は十字架、つまり、苦しみの可能性への心構えです。家族や友だちなどより、イエスを愛すると批判、迫害、病気などといった苦しみを体験する可能性が高いことへの心構えです。3つ目はこの2つのことを実行して歩む弟子たちの報いです。それは、イエスの名によって派遣される弟子たちが受けるもてなし、弟子たちが体験する福音宣教の喜びのことです。つまり、心をこめて、すべてに超えてイエスのことを優先にする人は祝福され、報われると今日の福音箇所が語っています。

先ほど申し上げたように、マタイ福音記者はこのイエスの言葉を参考し、悩んでいた自分の共同体にイエスを模範とし、すべてに超えてイエスを忠実に従うように、求まました。

皆さん、先週の日曜日のように、イエスの弟子たちである私たちが取るべき態度を教えています。私たちは洗礼によって、イエスの呼びかけに答えて、毎日の生活の中で宣教師として派遣されています。また、初代教会の人々のように、事情と考え方が変わる現代社会の中では、どういうふうに、イエスの弟子として生きるべきかと悩むこともあります。さらに、初代教会の人々のように、信者が少ない日本、未信者が多い家族や地区や職場などで、どのようにイエスの弟子として生きるべきかと悩むこともあります。最後に、こうした信者が少ない環境で誤解される心配もないことはありません。

初代教会の人々に求めたように、今日マタイ福音記者はイエスを模範とするようにと、新たに私たち一人ひとりに声をかけてくださっています。イエスの弟子として、主イエスのように、反対や誤解などされる可能性があるのですが、忍耐を持って、イエスを大切したら、最後イエスの栄光と喜びにあずかるようになります。心をこめてイエスに従ったら、主イエスの内に家族、喜び、慰めを見出すことはできます。

事情と理想が変わる現代社会のなかでは、イエスを大切にし、イエスに忠実に結ばれるように、このミサの中で神様の恵み、助け、と導きを願い求めましょう。



P Frederik Khonde 神父様
三原カトリック教会

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