日曜日の説教年間第14主日


年間第14主日
朗読:
ゼカリヤ9・9-10
使徒パウロのローマの教会への手紙8・9、11-13
マタイ11・25-35

イエスは病気など重荷を負う者、悩み苦しんでいる者に真の安らぎ与えてくださるかたです。

先週の日曜日には、イエスに従う人どの態度を取るべきかを聞きました。それは、すべてに越えてイエスを愛し、イエスのことを優先することです。イエスのことを大切にすることは、家族や周りへの愛の土台と出発点だからです。今日は、神様は悩み苦しむわたしたちを慰め、私たちの抱えきれない重荷を担ってくださり、まことの安心と安らぎを与えてくださると言われています。

今日の第一朗読は、バビロン捕囚後に、町や神殿を建てようとした人々に慰めと希望与えるために書かれたものです。イスラエルの民は、長年の苦しみや侮辱に満ちたバビロン滞在を終え、帰国しましたが、すべてが破壊されたので、ゼロから町や神殿などの再建で困りました。また、毎日の生活は期待通りに進まなかったので、希望をなくしました。かれらを慰めたのは預言者たちです。

今日の第一朗読のゼカリヤはこの預言者の一人です。ゼカリヤ預言者は、戦争、悩み、不安、苦痛があっても、神様はこれから平和と慰めをもたらす王を送ってくださるとイスラエルの民に告げました。謙遜な形で来られるその柔和な王の支配は地の果てにまで及ぶと語り続けて、彼らに喜びと希望へと招きました。

預言者はたちが告げた王は来られたが、今日の福音が語るように、多くの人々に認められませんでした。今日イエスは自分を受け入れなかったファリサイ派の人々と律法学者たちを批判して、幼子のよう者をほめています。「知恵ある者や賢い者」はイエスを受け入れない人、「幼子のような者」はイエスを受け入れる人のことです。当時の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していました。つまり、律法の専門家は賢い人だと考えられていました。
一方、幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたというのが現実だったのです。しかし、イエスにとって、それは神様のみ旨にかなうことでした。

イエス自身が貧しく、謙遜な方であり、律法教師としての特別な資格や地位がないから、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。そのイエスは、ファリサイ派や律法学者とはちがい、資格のないペトロやヨハネのような平凡な人々を自分のところに引き寄せ、かれらを自分の弟子にしました。また、神様から来られたイエスは、人生の様々な重荷を負う人に声をかけて、その人々の軛・重荷を共に担ってくださると語っています。軛は荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものです。軛も荷も「重荷」のイメージです。しかし、イエスがその軛・重荷を、共に担ってくださるから軽くなるのです。

皆さん、今日の朗読は希望と力を与えてくださるものです。町の再建で困った今日の第一朗読のイスラエルの民、またイエスに助けを求めた人々のように、わたしたち人ひとりには病気、悩み、思い煩い、心配、将来と家族の不安などあります。できるだけ思い出したくない辛い経験、だれにも話したくない悩みごと、なかなか忘れられない心配なことなど抑えきれないことは、わたしたち人ひとりにはあるでしょう。それらは、今日の福音が語る軛や重荷でないでしょうか。

預言者が告げたイエスは、このようなわたしたちに「わたしはあなたの重荷を共に担う」と語りかけてくださっています。そうすると、イエスのうちにまことの安らぎを見出すことができるのです。イエスに私たちの抱えきれない不安、心配、苦しみ、病気などをゆだねると、イエスはともに担ってくださいます。

人生のいろいろな場面で悩み苦しんでいるすべての人が、人生の意義をなくした人々が今日のイエスの呼びかけに希望と力を見出すことができるように、そして私たち人ひとりも、イエスが約束された安らぎをいただくことができるように、このミサの中で祈り続けましょう。


P Frederik Khonde 神父様
三原カトリック教会

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