日曜日の説教年間第15主日


朗読:
イザヤ預言55・10-11
使徒パウロのローマの教会への手紙8・18-23
マタイ13・1-9

自分の約束を忠実に守られる神様は、わたしたちの働き、努力を実らせてくださる方です。

先週の日曜日には、主イエスが人生の抱えきれない様々な重荷を担うわたしたちを自分のところに引き寄せて、ともに担ってくださるので、わたしたちは主イエスのうちに安らぎを得ると聞きました。今週、自分の約束を忠実に守られる、力ある神様は、人間の働きや努力を実らせてくださると聞いて、信頼と希望を持って、毎日の行いに努めるように呼びかけられています。

第一朗読は神様との契約、神様の約束に対して疑問を持っていたイスラエルの民のために語られた言葉です。イスラエルの民は歴史の中でバビロニア帝国に負けて、バビロンという町に行かされてしまいました。バビロニア帝国によるエルサレムと神殿の破壊は彼らにとって衝撃的出来事でした。それによって希望なくしただけでなく、神様の力、神様が先祖たちと結んだ契約、神様の約束などを疑うようになってしまいました。バビロン捕囚はかれらの迷いの時代でした。

イザヤ預言者はこうした人々を慰め励ますために、神様の言葉の力と効率について語り、神様の言葉を雨に例えています。大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人には糧を与える雨のように、神様の言葉はむなしく戻らないと預言者は教えると言い、神様への信頼を求めまた。つまり、時間がかかっても、困難があっても、神様の約束は必ず実現するとイザヤが語りました。

福音でもイエスは種を蒔く人のたとえ話をとおして、神の言葉の力と効率について話しています。まず、イエスはたとえ話を使ったのは神の国を告げ知らせるためでした。神の国は世界のどこかにある国、帝国などではなく、愛、あわれみ、いつくしみ、赦し、平和のどの支配のことです。その神の支配は近づいたとイエスは告げ知らせました。ちょっとたとえ話を見てみましょう。

まず、不思議に思うのは、この農夫のやり方です。わたしたちは畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから、種が無駄にならないように、注意深く蒔きます。ところが、パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。なぜなら、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。確かにこのような種まきは無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。つまり、パレスチナの人たちは、蒔く種が無駄になることが分かりながらも、希望をもって蒔き続けていました。
 
本来のこのたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えます。この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗に遭っても、あきらめずに神の国を告げ、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。

皆さん、今日わたしたちは種を蒔く人のように神の支配を告げ知らせるように派遣されています。信者も司祭の数も少しずつ減ること、なかなか若者が教会に来ないこと、デパ-ト、ス-パは教会よりも人が多いことなどは、わたしたちの心配なことになってきました。また、日常生活の中で自分、家族、国などの将来のために考える時に先が見えないと思って、不安や絶望に陥ってしまうことは時々あります。

今日、希望を失ったイスラエルの民を励ました第一朗読のイザヤの言葉、そして、イエスの種を蒔く人のたとえは、わたしたちへの力、勇気と希望の源泉です。なぜなら、神様の言葉は効果あるもので、むなしく戻ることはできないのです。神様の言葉と約束は必ず実現する、いいことは必ず出る、神様がわたしたちの今の行いと努力を実らせてくださるという希望を新たにして、歩むように心がけましょう。

今日のイザヤの希望のメッセージに答えて、そして、大きな収穫に信頼し、希望を持って種を蒔いていたパレスチナの農民に習い、わたしたちも希望をもって、毎日の歩みの中で、神様の愛、いつくしみ、寛容などをあかしし続けるように、このミサの中で神に忍耐と力を願い求めましょう。


P Frederik Khonde 神父様
三原カトリック教会

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