日曜日の説教年間第16主日


年間第16主日
朗読:
知恵の書12.13、16-19
使徒パウロのローマの教会への手紙8・26-27
マタイ13・20-30

神様はあわれみ深く忍耐と寛容に満ちておられます

先週の日曜日には中東の厳しい自然環境の中で希望を持って種を蒔く人のたとえをとおして神様が私たち一人ひとりの働きを実らせてくださり、雨のように、効果ある神様の言葉の力が必ず実現するから、希望と信頼を持って、わたしたちの計画などを神様にゆだねるように招かれました。今週はわたしたちの努力、行いなど支えてくださるこの神様はあわれみ深く、寛容と忍耐に満ちておられると言われています。

第一朗読は知恵の書の箇所ですが、海外、特にエジプトで生活していたユダヤ人のために書かれたものです。そこで栄えていたギリシア文化に魅かれて、あるユダヤ人は伝統的な信仰を捨て始めました。それで、知恵の書は先祖伝来の信仰の価値と意義を教え、そこに留まるように求めます。今日の朗読箇所は、イスラエル人と敵対したカナン人に対する神様の寛容とその理由を強調するために、すべてに及ぶあわれみ、寛容と忍耐に満ちています神の支配を語ります。


神は自分の権力を信じない者に力を示すが、それは寛容と大いなるあわれみを持った裁きです。また、神様はいつでもその力を用いることはできるのですが、それをむやみに振るうことはしません。なぜなら、神様の忍耐は回心を求めながら、寛容を教えるからです。ですから、神による裁きの目的は人間を滅ぼすのではなく、命へと招き、歩むべき道を示すことにあると今日の第一朗読が教えています。

あわれみ、寛容と忍耐による神の支配は、毒麦のたとえ話を中心とする今日の福音箇所でも語られています。麦畑にいつのまにか毒麦が入り込んでしまいました。僕たちは「抜き集めておきましょうか」と主人に尋ねましたが、主人はそれを許しませんでした。「むぎまで一緒に抜くかもしれない」ことを心配したからです。実際、麦畑では成長の段階で、本物の麦と毒麦を区別するのが難しいので、農民は収穫の直前までそれをそのままにしておいたそうです。

イエスはこの農民の知恵を借りて、悪に対する神のあわれみ、寛容と忍耐を示そうとしています。確かに最後に裁きがあり、毒麦が必ず焼き尽くされるのですが、神様は忍耐する農民のように、最後まで人間に回心するチャンスを与えてくださいます。さらに、人々を裁くのは、主人のように、神さましかおらないというのは、このたとえのポイントでもあります。つまり、イエスは神様のあわれみ、寛容と忍耐を強調しながら、人を裁く危険性も指摘しているのです。

皆さん、わたしたちは段々厳しく、不寛容な世界や社会の中で生きています。ニュ-スを聞くと宗教的過激主義、愛国主義、ポピュリズム運動など排他的な思想の出現への懸念をよく聞くでしょう。我々と彼らを明確に区別し、意見、考え方、やり方などの違いを認めないことが段々増えてきました。個人やグル―プなどが定めた基準で相手を評価すること、効率の名によって、ちょっとした相手のミスを厳しく批判すること (最近の自粛警察現象)、自分の枠、自分の目で他の人のことを批判したがることは、あるでしょう。

しかし、今日新たにイエスが示してくださる神様は、他人を批判するよりも、一人ひとりの心が神様との真の出会いをとおして実るように祈り合い、忍耐のうちに互いの弱さや過ちを背負うように招いてくださいます。人間としては、神様のあわれみによって生き、神様の限りない愛が、わたしたちに注がれているのです。いくら自分から離れても、忍耐と寛容に満ちた神様は必ず私たちを迎えいれてくださいます。

(神は恵みとあわれみに満ち、怒るに遅くいつくしみ深いと時々歌います「典礼聖歌62番」)罪人で私たちの滅びを望まれないあわれみ、寛容と忍耐に満ちておられる神様、わたしたち一人ひとりに回心するチャンスを与えてくださる神様にないならい、相手のミスや過ちを共感し、寛容と忍耐を持って互いに支え合うことに心がけましょう。



P Frederik Khonde 神父様
三原カトリック教会

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