年間第19主日

 

朗読:

列王記上19・9a、11-13a

使徒パウロのローマの教会への手紙91-5

マタイ14・22-33

 

神様は人間の人生の様々な嵐の中にもともにいてくださる方です。

 

先週の日曜日には神様はわたしたち一人ひとりの渇きと飢えを満たし、わたしたちの物質的、霊的、精神的な必要を満たしてくださると聞きました。解放と帰国を望んでいたバビロン捕囚中のイスラエルの民、あるいはイエスに癒しなどを求めた群衆のように、愛情、受け入れ、癒しなどを求めるわたしたちもイエスのうちにとどまると満たされるといわれました。今週は人生の様々な嵐の中でも、神様がともにいてくださり、私たちの人生の嵐を静めてくださり、助けにきてくださると聞いて、いつもイエスに助を求めるように呼びかけられています。

 

第一朗読はいろいろ悩んで神様と出会ったエリヤ預言者のことを語っています。そこ背景にはこういうことがあります。北イスラエル王の政策によって異教の神バアル礼拝がイスラエル社会に入ってきました。しかし、エリヤ預言者はそれに反対して立ち上がり、その神バアルの預言者と闘って勝利を収めました。

 

すると、異教の神バアルの礼拝者である王妃に命を狙われ、荒れ野にまで逃げてしまったのです。恐れと疲れのあまり預言者は「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください」と死を望みました。こうして、今週の朗読の出来事はここにつながります。不安と恐れに満ちたエリヤは山で神様と出会い、力づけられ新たな使命を与えられて、イエスラエルに戻ることにしました

 

今日の福音は山に登り神様との親しい交わりの時間を過ごしていたイエスが荒れる湖に悩む弟子たちを救う奇跡を語ります。宣教に向かった弟子たちは困難の中で行き場を失い、進むことも戻ることもできない状態に置かれました。そこに海の上を歩くイエスの姿が見えたが、幽霊と脅え、恐怖の叫びを上げました。それで、イエスは仰の弱い彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」といわれました。

この言葉に励まされて、ペトロは、イエスの力を頼りに水の上を歩こうとしましたが、吹き荒れる強い風を見て、恐れて沈みかけました。それでも、「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエスは手を差し伸べました。イエスが舟に乗り込むと、風は静まったと今日の福音書が語っています。つまり、弟子たちに近づくイエスは、この奇跡をとおして、神がともにいてくださることを示し、人間が逆風と荒波という困難の中にもいる時に神がともにいることを告げているのです

 

皆さん、人生の中では今日の第一朗読のエリヤ預言者と福音の弟子たちのように、わたしたちも様々な困難、嵐などにぶつかっています。弟子たちが遭った嵐は、初代教会が体験した迫害にもわたしたちが遭う困難にも当たります。また、船はわたしたちの人生の歩みも表します。わたしたちは、恐怖、自分と子供の将来への不安と心配、心の悩み、人間関係と健康不安定などで、悩んだり、先が見えないように思ったりする時もあるでしょう。こうした中で、「安心しなさい。わたしがともにいる。だから、恐れることはない」とイエスは今も様々な恐れに囚われているわたしたち一人一人に呼びかけています。

 

また、わたしたちもペトロのように水の上を、あるいは、水の上でなくともイエスに従う道を歩みたいのです。しかし「強い風」、つまり、さまざま な困難のために「怖くなり」、「主よ、助けてください」と叫びたくなることがあります。今日神の保護を保証しているイエスは、こうした私たちを困難、絶望、不安などの時に、信頼のうちに、恐れることはないと言い、神様に叫ぶようと招いておられます。なぜなら、わたしたちは一人ではなく、神様がともにいてくださり、そして、信頼のうちに叫ぶ者は助けられるからです。

 

今日の第一朗読のエリヤと福音書の弟子たちが体験したように、神様は目には見えなくても働いておられ、わたしたちが期待しないところ、思わないところ、無理だと思うところ、もうだめだと思うところでも働いておられ、ともにいてくださいます

 

毎日の中で、病気、迷い、パニックなど、人生のいろいろな嵐の中でもわたしたち一人ひとりが「安心しなさい、恐れることはない」と言われ、手を差し伸べて助けにきてくださる神様の声を聞いて、その存在と助けを感じ、力づけられるように、このミサの中で祈りましょう。

P Frederik Khonde 神父様

三原カトリック教会

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