間第26主日 キリストは、…十字架の死に至るまで従順でした

 間第26主日

三原カトリック教会

P Frederik Khonde神父様

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本日のミサと行事


l  930:ミサ (日本語)、930ミサ後大掃除


今後の予定とお知らせ

 

   103日(土)1000 力石家の追悼ミサ

   旧約聖書の書き記しリレーにご協力をよろしくお願いします。

   「現代社会から旧約聖書を読む」という勉強会を、第1.3の水曜日「午後」に開きたいので、募集をします。対象者は旧約聖書のことを知りたい三原教会と尾道教会の人たちです。開催地に関しては希望者との打ち合わせによって決めたいと思っています。このお知らせを兄弟姉妹に紹介していただければありがたいです。(フレデリックより)

 

聖書のみ言葉の味わい


回心の道を歩む罪人を迎え入れてくださる神様 (エゼキエル預言者18・25-28)

 

いつの時代にも人間は人生の様々な困難、不安と災害の意味と闘い、どう受け止めるべきかと悩みます。例えば、どうして頑張っても思い通りに人生が進まないのか。どうして細心の注意をしたのに病気にかかってしまったのか。どうして東日本大震災のような災害が起こるのか。神様に見捨てられたのか。我々が悪いことをしたのか。おそらく、人生のある時にこのような難しい疑問にぶつかるでしょう。それについて、旧約聖書の中には時代によるそれぞれの考え方があります。バビロン捕囚時の考え方とそれに預言者の返事を紹介させていただきたいと思います。

今週の第一朗は先週の日曜日の第一朗読のイザヤの預言 (55・6-9)のように、読はバビロンに行かされて希望をなくしたイスラエルの民への希望と励ましの言葉です。人間の人生に起こる様々ないいことと悪いことが人間の行いの結果とか、いいことが神様による報いとか悪いことが神様による罰だというのは、当時の基本的な考え方でした。先週の日曜日の朗読のイスラエルの民の考え方はそれでした。

 ところが、エゼキエルの時に、イスラエルの民は自分の生き方と先祖たちの生き方を比較して、先祖たちのほうが、ひどいことをしたと納得して捕囚とそれに伴う苦しみ、侮辱などが、先祖の犯した罪の報いだと思うようになりました。それに対して、まず(1、エゼキエルは現在の状況は先祖の罪の報いではなく、民自身が犯した罪の報いだと教えました。そして(2神様があわれみ深い方だから、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みのわざを行うなら、つまり回心したら、生きると述べ続け、彼らに生きる希望と勇気を与えました。

 皆さん、今日の第一朗読のイスラエルの民のように、わたしたちも人生の様々な不安、困難、不幸などの意味と闘い、相手も自分も責めたりすることもあります。そして、イエスの時代の徴税人と娼婦のように、罪人だ、ダメなやつだ、もう変わらない、あの人ばっかりなどの避難を受ける時もありあす。今日の朗読はそんな私たちに神様の限りないあわれみといつくしみの姿を示しています。神様にはもうだめだ、もうこれが最後のチャンスだという思いはありません。私たち一人ひとりにはどんな惨めな過去があっても、反省して、神様に向かって歩めば、受け入れられます神様の限りないあわれみといつくしみを信じて、希望と勇気を持って行きるようにと今日新たに招かれています。

 

本日の願いと意向


l  今日の答唱詩編の1節の言葉を大切にしながら、あわれみといつくしみ深い神様が私たち一人ひとりに回心の道を教えてくださるように、祈りましょう。(最後に答唱詩編1節を唱えます:聖書と典礼3ぺ-ジ)。

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