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年間第18主日

  年間第18主日 朗読: イザヤの預言 55・1-3 使徒パウロのローマの教会への手紙8・35、37-39 マタイ14・13-21   神様はわたしたちの渇きと飢えを満たしてくださいます。   先週の日曜日には私たちの宝は神様と出会い、神様のうちに永遠にとどまるところにあると聞いて、神様を探し求め、神様との出会いに努めるように、招かれました。この神様に信頼をしたら、わたしたちの物質的、霊的、精神的な必要が満たされるというのは、今日の朗読の一つのメッセ―ジです。   今日の第一朗読は、自分の故郷から離れて、バビロンに行かされたイスラエルの民のために書かれた箇所です。神様が渇きを覚えている人々を自分のいる所に招いてくださると今日の朗読が語っています。 乾いている人々とは、バビロンで捕囚されたイスラエルの民のことです 。かれらはある程度の自由が認められたようですが、生活はそれなりに保証されても、捕囚民としては、将来に対する不安を抱いていたと思われています。   それで、彼らを励ますために、 肉体的にも精神的にも乾いている彼らにのどを潤す水がある と預言者が語ったのです。神様の言葉を聞いて、神様に信頼をすれば、かれらの飢えと渇きが銀を払うことなく、価を払うことなく満たされます。なぜなら、神の言葉に信頼したら、 神のいつくしみが生きる道を開いてくれている ことに気づくはずだからだとイザヤ預言者が語っています。   イザヤ預言者の約束は、今日の福音の中で実現しています。今日の福音箇所はあわれみに満ちておられるイエスが病人を癒してから五つのパンと魚二匹を用いて五千人以上の人々の空腹を満たしたという 奇跡物語 です。弟子たちにとってあんな離れた所で、パン五つと魚二匹でそんな人たちを食べさせるということは 無理 でした。確かに人里離れた所なんですが、イエスがいるから、何でもあり得ます。イエスが五つのパンと二匹の魚を取り、祈りをささげてから、弟子たちはそれを群衆に配って、皆満腹しました。   皆さん、 今日の福音箇所は人を生かすパンを与えるイエスの姿に焦点を向けています 。 人間の必要を根本から満たす のは、イエスしかいません。神がイエスラエルの民を荒れ...

日曜日の説教年間第17主日

年間第17主日 朗読: 列王記上3・5、7-12 使徒パウロのローマの教会への手紙8・28-30 マタイ13・44-46   人生の最高の宝は、神様を示してくださるイエスとの出会いにあります。   先週の日曜日には、独麦のたとえ話をとおして、神様の限りない忍耐と寛容について聞きました。神様は忍耐強く、罪によって自分のところから離れた人間に回心のチャンスを与えてくださると言われました。今日の朗読は人生の最高の宝、人生の一番大切な物、または終わることのない物は神との出会いにあり、 神様の支配に覆われることになると言われて、その出会いを毎日慕う ように招かれています。   第一朗読は願うことが何でも与えられると神様に言われたソロモン王のことを語っています。ソロモン王は長い生き、財産、名誉、自分の敵が殺されることなどではなく、人々を正しく治め、善と悪を判断することができるように、聞き分ける心を願いました。つまり、ソロモン王が願ったのは神様とイスラエルの民との契約をうまく守り、正しく判断する知恵です。   福音箇所ではイエスはたとえ話、イメ―ジをとおして神の国について語っています。神の国はまず畑に隠された宝に例えられています。それを発見した人はそのまま隠しておき、喜びのうちに持ち物をすっかり売り払って、その宝を買います。また、神の国は高価な真珠に例えられています。商人がよい真珠を探していて、それを見つけると、宝を見つけた人のように、持ち物をすっかり売り払い、それを買います。   どうやってその2人は隠された宝と高価な真珠を、それぞれ見つけたのか?宝を見つけた人の場合は働きながら見つけ、真珠を見つけた人の場合は、探しながら、見つけました。つまり、福音も第一朗読と同じように、人間が求めるべき宝を教えています。それは、天の国です。「天の国」は「神の国」と同じで、神が王となる状態、つまり神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態とか、あるいは、本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態、 神様に結ばれた状態 と言ってもいいでしょう。 わたしたちの人生に価値と意味を与える宝と真珠は、イエスによる神様との結びにあるのです 。   皆さん、神様はとてもすばらしい宝を与えてくだ...

日曜日の説教年間第16主日

年間第16主日 朗読: 知恵の書12.13、16-19 使徒パウロのローマの教会への手紙8・26-27 マタイ13・20-30 神様はあわれみ深く忍耐と寛容に満ちておられます 先週の日曜日には中東の厳しい自然環境の中で希望を持って種を蒔く人のたとえをとおして神様が私たち一人ひとりの働きを実らせてくださり、雨のように、効果ある神様の言葉の力が必ず実現するから、希望と信頼を持って、わたしたちの計画などを神様にゆだねるように招かれました。今週はわたしたちの努力、行いなど支えてくださるこの神様はあわれみ深く、寛容と忍耐に満ちておられると言われています。 第一朗読は知恵の書の箇所ですが、海外、特にエジプトで生活していたユダヤ人のために書かれたものです。そこで栄えていたギリシア文化に魅かれて、あるユダヤ人は伝統的な信仰を捨て始めました。それで、知恵の書は先祖伝来の信仰の価値と意義を教え、そこに留まるように求めます。今日の朗読箇所は、イスラエル人と敵対したカナン人に対する神様の 寛容 とその理由を強調するために、すべてに及ぶあわれみ、 寛容と忍耐に満ちています神の支配 を語ります。 神は自分の権力を信じない者に力を示すが、それは寛容と大いなるあわれみを持った裁きです。また、神様はいつでもその力を用いることはできるのですが、それをむやみに振るうことはしません。なぜなら、神様の忍耐は回心を求めながら、寛容を教えるからです。ですから、神による裁きの目的は人間を滅ぼすのではなく、命へと招き、歩むべき道を示すことにあると今日の第一朗読が教えています。 あわれみ、寛容と忍耐による神の支配は、毒麦のたとえ話を中心とする今日の福音箇所でも語られています。麦畑にいつのまにか毒麦が入り込んでしまいました。僕たちは「抜き集めておきましょうか」と主人に尋ねましたが、主人はそれを許しませんでした。「むぎまで一緒に抜くかもしれない」ことを心配したからです。実際、麦畑では成長の段階で、本物の麦と毒麦を区別するのが難しいので、農民は収穫の直前までそれをそのままにしておいたそうです。 イエスはこの農民の知恵を借りて、 悪に対する神のあわれみ、寛容と忍耐を示そうとしています 。確かに最後に裁きがあり、毒麦が必ず焼き尽くされるのですが、 神様は...

日曜日の説教年間第15主日

年間第15主日 朗読: イザヤ預言55・10-11 使徒パウロのローマの教会への手紙8・18-23 マタイ13・1-9 自分の約束を忠実に守られる神様は、わたしたちの働き、努力を実らせてくださる方です。 先週の日曜日には、主イエスが人生の抱えきれない様々な重荷を担うわたしたちを自分のところに引き寄せて、ともに担ってくださるので、わたしたちは主イエスのうちに安らぎを得ると聞きました。今週、自分の約束を忠実に守られる、力ある神様は、人間の働きや努力を実らせてくださると聞いて、信頼と希望を持って、毎日の行いに努めるように呼びかけられています。 第一朗読は神様との契約、神様の約束に対して疑問を持っていたイスラエルの民のために語られた言葉です。イスラエルの民は歴史の中でバビロニア帝国に負けて、バビロンという町に行かされてしまいました。バビロニア帝国によるエルサレムと神殿の破壊は彼らにとって衝撃的出来事でした。それによって希望なくしただけでなく、 神様の力、神様が先祖たちと結んだ契約、神様の約束などを疑うようになってしまいました。バビロン捕囚はかれらの迷いの時代でした。 イザヤ預言者はこうした人々を慰め励ますために、 神様の言葉の力と効率について語り 、神様の言葉を雨に例えています。大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人には糧を与える雨のように、神様の言葉はむなしく戻らないと預言者は教えると言い、 神様への信頼を求めまた 。つまり、時間がかかっても、困難があっても、神様の約束は必ず実現するとイザヤが語りました。 福音でもイエスは種を蒔く人のたとえ話をとおして、神の言葉の力と効率について話しています。まず、イエスはたとえ話を使ったのは神の国を告げ知らせるためでした。神の国は世界のどこかにある国、帝国などではなく、愛、あわれみ、いつくしみ、赦し、平和のどの支配のことです。その神の支配は近づいたとイエスは告げ知らせました。ちょっとたとえ話を見てみましょう。 まず、不思議に思うのは、この農夫のやり方です。わたしたちは畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから、種が無駄にならないように、注意深く蒔きます。ところが、パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、そ...

日曜日の説教年間第14主日

年間第14主日 朗読: ゼカリヤ9・9-10 使徒パウロのローマの教会への手紙8・9、11-13 マタイ11・25-35 イエスは病気など重荷を負う者、悩み苦しんでいる者に真の安らぎ与えてくださるかたです。 先週の日曜日には、イエスに従う人どの態度を取るべきかを聞きました。それは、すべてに越えてイエスを愛し、イエスのことを優先することです。イエスのことを大切にすることは、家族や周りへの愛の土台と出発点だからです。今日は、神様は悩み苦しむわたしたちを慰め、私たちの抱えきれない重荷を担ってくださり、まことの安心と安らぎを与えてくださると言われています。 今日の第一朗読は、バビロン捕囚後に、町や神殿を建てようとした人々に慰めと希望与えるために書かれたものです。イスラエルの民は、長年の苦しみや侮辱に満ちたバビロン滞在を終え、帰国しましたが、すべてが破壊されたので、ゼロから町や神殿などの再建で困りました。また、毎日の生活は期待通りに進まなかったので、希望をなくしました。かれらを慰めたのは預言者たちです。 今日の第一朗読のゼカリヤはこの預言者の一人です。ゼカリヤ預言者は、戦争、悩み、不安、苦痛があっても、神様はこれから平和と慰めをもたらす王を送ってくださるとイスラエルの民に告げました。謙遜な形で来られるその柔和な王の支配は地の果てにまで及ぶと語り続けて、彼らに喜びと希望へと招きました。 預言者はたちが告げた王は来られたが、今日の福音が語るように、多くの人々に認められませんでした。今日イエスは自分を受け入れなかったファリサイ派の人々と律法学者たちを批判して、幼子のよう者をほめています。「知恵ある者や賢い者」はイエスを受け入れない人、「幼子のような者」はイエスを受け入れる人のことです。当時の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していました。つまり、律法の専門家は賢い人だと考えられていました。 一方、幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたというのが現実だったのです。しかし、イエスにとって、それは神様のみ旨にかなうことでした。 イエス自身が貧し...

日曜日の説教年間第13主日

年間第 13 主日 朗読: エレミヤ預言  20 ・10- 13 使徒パウロのローマの教会への手紙 5 ・ 12-15 マタイ 10 ・ 26-23 すべてに超えてイエスを愛し、そのことを優先にする人は苦しみを受ける可能性はあるのですが、神様に報われます。 先週の日曜日には売り物にならない雀に目をとめてくださる神様はともにいてくださり、わたしたちを見守ってくださるから、恐れることはないと言われました。すべてに超えてその神様を愛し、その神様のことを優先にする人は、恵みと祝福で満たされると今日の朗読は教えています。 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」これはマタイによる福音書 10 章の今日の箇所です。この 10 章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教です。今日の箇所はその結びの部分です。その箇所が福音書に書かれた時代の事情が分かると、今の私たちはそのメッセージを深く味わうことができると思います。 マタイの共同体の事情を見てみましょう。マタイの共同体の一部はイエスを救い主として認めたユダヤ人でした。ユダヤ教徒が多い当時の社会ではイエスへの信仰は好意に認められませんでした。そのために、 どういうふうに生きるべきか、どういう姿勢を取るべきかというのが社会の侮辱や迫害の対象者となった古代キリスト教徒たちの大きな課題 となりました。 マタイ福音記者は迫害を受け、共同体から追い出された古代信者のために、イエスが弟子たちを派遣する前に語った言葉を伝え、共同体を励ました。 今日の福音は三つのことを伝えています。一つは、イエスに従うことは、血縁を超え、イエスのことを優先にすることです。二つ目は十字架、つまり、苦しみの可能性への心構えです。家族や友だちなどより、イエスを愛すると批判、迫害、病気などといった苦しみを体験する可能性が高いことへの心構えです。 3 つ目はこの 2 つのことを実行して歩む弟子たちの報いです。それは、イエスの名によって派遣される弟子たちが受ける...

日曜日の説教年間第12主日

年間第 12 主日 朗読: エレミヤ預言  20 ・10- 13 使徒パウロのローマの教会への手紙 5 ・ 12-15 マタイ 10 ・ 26-23 神に信頼する人は、神様に守られるから恐れることはありません。 聖体拝領をとおしてイエスと、そして、兄弟姉妹と一つに結ばれます。その交わりによって、永遠の命のパンであるイエスは私たちの心の空腹や欲望などを満たしてくださり、わたしたちを満足させてくださると、キリストの聖体であった先週の日曜日に言われました。イエスに従う者はイエスの名によって、苦しみ、迫害などに遭う可能性があるのですが、一羽の雀にも目を留めてくださる神様が私たちを見守ってくださるから、恐れる必要はないと今日の朗読が語っています。 第一朗読のエレミヤ預言者の時代の人たちは、神様と先祖たちが結んだ契約と神様の教えから離れてしまったことで、社会不正義、貧困、貧富の差などが入ってきました。それと同時に、弱くなったイスラエルの南王国を奪うために、北からバビロニア帝国が迫ってきました。ところが、エレミヤ預言者は迫る危険性と社会の色々な問題を訴えたが、人々は彼を偽預言者として見ました。それで、エレミヤ預言者は社会指導者をはじめ、色々な苦悩と迫害、避難などを受けたのです。 「わたしに聞こえています。多くの人の非難が。恐怖が四方から迫ると彼らは言う。わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている」、と今日の第一朗読が語るのは、そのエレミヤ預言者の苦悩に満ちた告白です。しかし、彼の 力と支えは 、 主が恐れるべき勇士 としてともにいてくださることと、迫害者の方がつまずき、とこしえの辱めを受けるという 確信 から来るものです。それで、第一朗読が語るように、エレミヤは信頼のうちに祈り、神を賛美しました。 福音は、人間を見守ってくださる神様への信頼を呼びかけています。今日の箇所は 12 使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず、むしろ、迫害を受けることが避けられないことをイエスは予告します。そして、その中で どういう態度を取るべきかは、今日の福音箇所の焦点です 。今日の福音は人々を恐れてはならない理由を語...

Mozambiqueに宣教生活

45年前、姉は二人、モザンビークの国に住みはじめました。苦しみと喜び合わせていた死活で、神様と人間に自分の命を捧げます。 30 年前、モザンビークの国が独立する直前、スペインの聖母のしもべ修道女会から5人の修道女は、モザンビークの教会に頼まれて、モザンビークへ観想修道院を 創立するために派遣された。 すぐに始まった16年間の内戦を乗り越えて、次第に国は苦しみと貧しさから立ち上がるときが来た。修道女たちは、ずっと、周りの人々とともに苦しみを耐 え、スペインからの助けを受けながら、廻りの困っている人にすべてを分け合って生き続け、やっと人々と共に平和を味わうことができたのです。 十字架に架けられたイエズス様の御姿は、そばにいる多くの困っている人々を目の当たりに見て、できる限りのことを助けてくださったのです。 その中で、孤児を預かり育てること、病人の治療、貧しい人に食料、心を病む人に愛と慰めを、心からシスターたちは尽くし続けました。 いっしょに苦しみ、いっしょに喜び、現代まで生き続けてきたのです。

ジョワン(ヨハネ)五島の語る五島列島 (五島崩れ)

セシリア 三永典子 三原カトリック教会 - 2009年1月17日 ジョアン(ヨハネ)五島が語る、五島列島                               皆さん、こんにちは。私はジョアン五島です。私の名前を聞いて、「あ!?日本26聖人の1人だ!」と気付いて下さる方があったら嬉しいです。  私の事を少しお話し致しましょう。私は1578年頃、五島列島で生まれましたが、どの島で生まれたのか、は皆さんご存じ有りません。非常に熱心な切支丹の家庭に育ちました。   五島列島は、長崎の西約100kmの東シナ海に浮かぶ大小 140余の島々からなっており、そのうち18の島に人が住んでいます。  福江島、久賀(ひさか)島、奈留(なる)島、若松島、中通島という5つの主な島があり、それが由来で五島列島と呼ばれているのでます。 五島列島へのキリスト教伝来  1562年の五島は18代領主・宇久淡路守(あわじのかみ)純定(すみさだ)様に治められておりました。この領主が病気になった時、長崎県の西彼杵半島の横瀬浦という所におられたコスメ・デ・トーレス神父様に医者を派遣して欲しいと手紙を書きました。  キリストの教えを信じなくても、神父様達の南蛮の医術は一目置かれていたのでしょう。   依頼を受けた神父様は、日本人医師ディエゴ(ディオゴ)さんを五島列島の福江島に遣わし、治療に当たらせました。治療の度にディエゴさんから神様の話を聞 かされたお殿様は、病気が回復すると、デウス(神様)の話が聴きたいと言って来ました。これにより、1566年1月ポルトガル人でイエズス会のルイス・ デ・アルメイダ修道士(イルマン)と、同じく元は琵琶法師であったロレンソ了斎(イルマン)さんが五島に派遣されました。   ※アルメイダ修道士(1525〜1583)   ※アルメイダ修道士が宇久純定さまに会っているは、日本初の南蛮外科医。 場面。左手前は琵琶を手にするロレンソ了斉  亡くなる4年前に修道士から,  司祭に昇格して天草全島の責任者となった。 天草で帰天。                       領主の布教の許可を得て2人は福江島で宣教を始めましたが、お寺の僧侶などからいろいろと妨害を受けて、布教は思うようには進まず、一時は引き上げる寸前 まで追い込まれました。しかし...

愛しているイエズす様へ ・ 2006年4月15日

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愛するイエズす様よ! あなたは、私の命! あなたは、私の愛! あなたは、私の深い喜び! あなたは、私の歩む勇気! あなたは、私がさびしさにおちたときの抱かれている友人! あなたは、弱い私の中の徳! あなたは、目の見えない私の光! あなたは、分からない私の知恵 あなたは、命の歩みの中、右左を知らない私の生きる目標 あなたは、眠っている私の朝日 あなたは、この小さい私の限りのない誠の存在 あなたは、今も、いつまでも、私の道、私の心理、私の命です。 最後に、あなたは私の本当の存在です!

福音のマンが

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イエズス・キリスト様について知りたいと思うならば、まんがのリンクを開いてみてください。 http://gospelcomics.com/japanese/index.html 主イエス・キリストの過ぎ越しはおめでとうございます! 主はまことに語復活されました。アレルヤ、アレルヤ!

キリストの過ぎ越し、人の過ぎ越し

キリストの過ぎ越し、人の過ぎ越し 救い主の受難は人間の命の救いです。キリストが私たちのために自らすすんで死んでくださったのは、キリストを信じるわたしたちがとこしえに生きるようになるためです。キリストがしばらくの間わたしたちのような存在になってくださったのは、わたしたちがキリストの永遠のいのちにあずかるという約束を受けて、キリストとともに永遠に生きるようになるためです。 これこそが、天上の秘儀の恩恵、過越の賜物、望ましい年ごとの祭日、新しい世界の夜明けなのです。 人々は天上の恩恵の賜物によって聖とされ、霊的な秘跡の偉大な秘儀によって養われるのです。 (古代の復活祭の教えから)

愛の文明

愛の文明 ここまでの考察を結ぶにあたって、わたしはもう一度繰り返す必要を感じています。世界に真の平和を築くためには、正義が愛のうちに成就しなければならないからです。確かに、法は平和へと続く最初の道で、人々は法を守るよう教えられなければなりません。しかし、正義が愛によって補完されていなければ、道の終わりにたどり着くことはできないのです。正義と愛は時に、相反する力のように思えることがあります。しかし実際、それらはある一つの現実の二つの様相にほかならないのです。 人間の生のこの二つの様相は、互いに補い合うことで成り立つのです。歴史上の事実は、このことが真実であることを証明しています。それはいかに正義が、恨みや憎しみ、あげくには残虐性からも逃れられなかったことを示しているのです。正義そのものだけでは不十分なのです。まさに正義は、それが愛というより深い力に開かれていなければ、自らを裏切ることさえもあります。 こうした理由から、わたしはしばしば、キリスト者の皆さんとすべての善意の人々に、個人や人々の間の問題を解決するためにはゆるしが必要であることを思い起こすよう呼びかけてきました。ゆるしなしには正義はあり得ません。わたしの思いが、特にパレスチナと中東地域で続く危機的状況に向かう中、ここで今、もう一度繰り返します。かの地域の人々にあまりにも長い間苦しみをもたらしてきた重大な問題の解決は、単純な正義の論理を乗り越え、ゆるしの論理にも開かれた決断が下されない限り、見いだされることはありません。 キリスト者は、神が愛ゆえに人との関係に入られたことを知っています。そして神は愛を、人からの応答として待っておられるのです。ですから愛は、人間の間に可能な、最も崇高で、最も気高い形態の関係なのです。愛は人間の生のすべての分野を活性化し、国際秩序にまで広がらなければなりません。「愛の文明」が支配する人類社会だけが、真の恒久的な平和を享受できるのです。 新年の初めにあたって、すべての言語と宗教、文化のうちに生活する皆さんに向かって、古くからの格言を、もう一度繰り返したいと思います。「愛はすべてを征服する」。そうです、全世界の兄弟姉妹の皆さん。最後には愛が勝利するのです。この勝利が早まるよう一人ひとりが努力しましょう。それは、すべての人が心の中で、最も...

キリストの聖体

キリストの聖体 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。 信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」 と言われた。 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 ヨハネの福音書(6章32~69)

聖霊降臨

聖霊降臨 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 ヨハネによる福音書(20:19-23) 人々は恐れている。いろいろなことで恐れている。人間関係のこと、家族問題のこと、憎まれること、など。 愛していたイエズス様がもうそばにいないという寂しさに苦しみ、恐れていた弟子たちは、イエズス様の母マリアと心合わせて熱心に祈っていた。 イエズス様への思いは弟子たちの心から離れない。恐れていても、心の中で思い続ける。「その時」、神からの聖霊が下った。 私たちもいろいろな困難の中にあっても、イエズス様への思いとイエズス様の母マリアと共に弛まない祈りで、心を開き聖霊を受けましょう 。

キリストのうちに神の子となる

キリストのうちに神の子となる あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたにはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。 ペトロの第一手紙から (01:22-2:10) 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を...

隠遁者エスタニスラオ・マリア神父の略暦

1915年9月12日 エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた 1920年 4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする 1927年 12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。 1928年8月5日 モンセラート志願者の学院に入会する 1933年 修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く 1934年6月 御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた 1934年8月6日 初誓願 1936年7月18日 スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難 1937年12月8日 スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される 1938年1月 ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける 1939年1月15日 隠遁者になるゆるしを頂く 1939年1月17日 ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する 1939年9月 モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる 1941年8月10日 モンセラートで司祭に叙階される 1941-1961年 修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される 1961年2月7日 腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り 1961年4月27日 許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める 1961-1965年 霊的な師父としてますます外部...

隠遁者エスタニスラオ・マリア神父の略暦

1915年9月12日 エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた 1920年 4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする 1927年 12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。 1928年8月5日 モンセラート志願者の学院に入会する 1933年 修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く 1934年6月 御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた 1934年8月6日 初誓願 1936年7月18日 スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難 1937年12月8日 スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される 1938年1月 ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける 1939年1月15日 隠遁者になるゆるしを頂く 1939年1月17日 ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する 1939年9月 モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる 1941年8月10日 モンセラートで司祭に叙階される 1941-1961年 修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される 1961年2月7日 腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り 1961年4月27日 許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める 1961-1965年 霊的な師父としてますます外部...

エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父

私の師父 87歳の命を得て、エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父がその命の3分の一部、最後の29年は日本に隠遁者として生きました。この方について語るために、まず略歴を伝わります。 少々、師父の命の言葉、物語、生き方について書き続けるつもりです。 それは、神様の霊的な軌跡の現しているかたについて語ることなので、決して簡単ではありません。見たこと、知っていたこと、聞いたことを伝える知恵を主に頼みながら、証人として、今日から書くつもりです

聖ベネディクト

聖ベネディクト (480年ごろー547年) (祝日7月11日) ベネディクトは、西暦480年にイタリアのヌルシアに生まれ、ローマで勉強をしたが、世界に歩み始めたベネヂクトは、どんなか人は罪へはっしていることを見て、世の知恵をあきらめ,神の知恵をえらびました。ローマを去って、ある隠修士ロマヌスに出会い、ロマヌスの協力により、スビアコと呼ばれる山間の洞窟に隠遁生活を始めました。その時から、何年もの間、隠修士ロマヌスは自分のパンをベネヂクトに分けて、若いベネヂクトは支えられ、神様と一人で隠遁生活を営んだ。 試練を乗り越えたベネディクトの存在は人に知られて、主から知恵を与えられたベネディクトの名声は高まり、彼に倣おうと多くの弟子が集まったので近くに12の修道院を建てた。その中で聖マウロと聖プラシドは有名で、ローマの人が自分の息子を若いベネディクトに捧げた青年です。この青年はいつもベネディクトの側にいました。 やがてモンテ・カシーノに修道院を建て、それは西ヨーロッパの歴史上の中で有名な修道院となりました。また彼は、共同生活を送る修道者のために、戒律を書きました。修道者の生き方や修道生活の送り方などについて分かりやすく述べられており、しかも人の心に響くものでありました。ベネディクト会則は、修道生活の制度の基礎を築き、西方修道院制の歴史で重要な役割を果たすものとなりました。 これが今日私たちが「神の平和」に基づいていると言う聖ベネディクトの戒律の霊性は、後世、世界各地に広がるベネディクト修道院の種となった。聖ベネディクトの霊性は、修道者の周辺にも輝き、大勢の人々が『神を探し求める』深い霊性に呼ばれて、この人たちは世の中で主の弟子として生きているのです。